私の身内(1970年代)
私の両親は姉が誕生するとき結婚していませんでした。
母親は地元でスナックのオーナーママで毎晩店に出ていたそうです。
生まれたばかりの姉は店から500mはなれた自宅に残され、10歳の長女、7歳の兄(異父兄弟)3人で明け方まで留守番をしていたそうです。元夫の母親(元お姑さん)が様子をみてくれていたらしいです。
高度経済成長期の母子家庭の生活ですので、今と比べることはできないです。
がしかし小さい子供が3人で留守番とは・・
私の父は地元で自動車修理工場の会社を経営していました。家族経営で祖父母、姉1人妹2人がいたのです。そして何人かの従業員で営んでいました。
この人たちは地方から東京に出てきた人々でして、父が工場を前オーナーから1000万円で買い取るのですがそのお金は祖父母の地方の財産をすべて処分して用意してくれたのでした。
姉が生まれたとき、何で結婚しなかったのか?
田舎から出てきた家族、東京の隅でシングルマザーでスナックのママ。今でも難しそうな家族の形です。
現在・・・
平成26年に「小脳出血」を起こしまして半身麻痺になりました。血圧が180以上あったのですが、半年間続けた薬をやめて一ヵ月後でした。
後で聞いた話ですが、血圧の薬は飲み始めたらやめてはいけないということ。
病院の先生は何も言ってくれなかったなぁ。でもとても小さい薬で、
「こんな薬で何の役にたつのか?」と思っていましたから。
高血圧と聞くと
「肥満」「酒飲み」
と思われるかもしれませんね。
そんなことないのですよ。
身長は162cmで体重は62kgでした。ぽっちゃりですが、目立った感じではありませんでした。でも1年間で12kg一気に太った年でした。
お酒は一滴も飲みませんでした。高血圧になる要素は何もなかったのですが、区の検診で180、した110。で一ヶ月血圧を観察したら夜はだいたい160~180で薬を処方されたのです。でも高血圧でも息切れぐらいで、何も不便はありませんでした。
「小脳出血」とは脳の中心ほどにある小脳部分が出血してしまうことです。ミスチルの桜井さんもなったあれです。
小脳はバランスをつかさどるのですが、これは大事な部分ですよ。
私は大量出血ではなかったので、まだ立って歩けるのですが、常に目が回ってる状態で生きています。きっと二日酔いに近いのかな。体の重さと痺れが残ってしまいました。
インフルエンザの初期症状のようなけだるさが一生つづきます。
ある日「ぱっと」治るのではないかと錯覚するときがあるのですが、起き上がった瞬間に「無理か」と思います。絶望ではないのですが、残念さがあります。毎朝あります。
でも残念がってはいられず、3秒で立ち直り、生活をはじめます。
弁当を作り、
朝ごはんを食べ、
薬を飲み、
血圧を測る。毎日はこんな感じで朝をすごします。
杖を使わないと方角が狂う(まっすぐ歩けない)のでじいちゃんやばあちゃんが使うような杖を持っています。4年で4本も買ってしまいました。可愛いのから渋いのまでいろいろありますよ。私は折りたたみのものを使っています。2段階でたためて、コンパクトになるのでかばんにも入ります(私は常についているので両手を使いたい時だけ半分にたたんでベルトに差します。
機会があったら写真を載せますね^^。
漫画オタクの続きね^^
1983年ごろ、東京の片隅・・・
ミスミ爺さんがもみがらもって叫んでいる。あの有名な号です。
小学生の私は衝撃でノックアウトでしたね。面白いの一言でした。
「YOUはSHOCK!」は本当です。
「ゴムとび」と給食時に牛乳の紙ふたで「めんこ」をして勝てばふたをもらえる。そんなゴミ集め遊びに夢中になっていましたから、世紀末の話は刺激が強いのなんの。
「ノストラダムス大予言」を信じて疑わない子供時代でした。
北斗神拳は実際あると思いました。(近所に少林寺拳法の道場もありましたし。)
今考えればよくできた時代でした。こうやって文章にしていくと全部が紐付けされていくようで、それでいてなつかしい。
実は私は少年サンデー派でして・・・
小山ゆう「スプリンター」
石渡治「火の玉ボーイ」が好きでしたね。
少年ジャンプは
荒木飛呂彦先生は今でも大好きです。(内緒でしたが・・今はびっくりの大先生になられて・・うれしー^^)
今は有名な「ジョジョの奇妙な冒険」ですが、
読み始めたとき週刊誌の供給者の兄から「女の子の読む漫画じゃない!」と初めてしかられました。私は「??」と思いましたね。北斗の拳や男塾はノーマークでいいですか?と言いたいのをぐっとこらえたものです。
あとは
・・ヤングサンデーもありましたよね?
7~8年間読みました。
ジャンプ黄金期の初期ですね。ジャンプ放送局にはがきも送ってましたよ。なつかしー
ちょうどファミコンなどが出始めた時でした。
(でも持っている友達は少なかったなぁ。ちょっとした金持ちか、ネグレストの家庭にあったかな。ちなみにうちはMSXというゲーム機でした。キーボードに十字キーが付いていて遊ぶのですが、ファミコンがほしかった・・・。勉強ができない姉がゲームをプログラミングして母が驚いていました。)
子供のころはこんな感じでした。今に比べたらもののない時代でしたが、駄菓子屋はあったし、釣堀遊びや公園にもエキサイティングな遊具があり、放課後は楽しかったですよ。今とは何かが違いました。けど豊かな気がします。
・・・不思議ですね^^・・・
80年代の漫画オタクでした。
私が漫画に夢中になったのが、1983年ごろです。ちょうど10歳でした。
地方の専門学校卒業して兄が帰ってきました。東京で就職するため実家に戻ってきたのでした。兄は毎週4~5冊の週刊少年漫画を購読していましたから無料で読み放題でした。漫画を買うため必死に小遣いをためる必要はまったくありません!
この話は長くなりますので、次回詳しく書きますね。
身体障がい者という生き方
私はあることがきっかけで、ある日、突然半身麻痺になりました。
もう元通りになることはないのですが、「元気になったね。」
と言ってもらえるような生き方をしたいと思いながら日々をすごしていってます。
このブログで、半身麻痺の人間はこんなものを利用してうまく生活しているんだよ!
っていうのを紹介していこうとしています。
ハロウィン?もういい大人なんだよね~(^^)
こんにちは!!
生まれて初めてブログを書きます。
四十余年生きて、なかなか波乱万丈に生活しています。なんだ!そうなのか!とみなさんに納得してみてもらえるブログにしたいと思います。